急変

今朝7時過ぎに着信があった。病院に折り返すと、父の容態に変化があったという。変化と言っても、良くなることはないと最初から聞かされていたので、すぐに、良くない知らせだと察した。こんな時間に電話があっただけで、既にそう感じてはいたが。

酸素濃度が70%(コロナ禍では90%以下で入院とされていたので、どれだけ低い数字でどれだけ呼吸が辛いのかと思うが想像もつかない)、38℃の発熱があり、昨夜からは妹からの電話にも出れていないという。一昨日、呼吸が苦しく、今まで「毒だから」と拒否していた麻薬の皮下注射を、1日1mlで始めたばかりだった。少し楽になるかと思っていたのに、そうならなかったことに困惑した。ただ、緊急ですぐに来てくれということではなく、会えるのは面会時間だという。

週末、コロナが蔓延していた実家に呼び出されていたこともあり、疲労とで、この2日間は、念のため見舞いを控えていた。もし自分もコロナに感染していたら、そろそろ症状が出るころだが、今のところ症状は出ていない。検査して、結果によっては緊急時の対応を相談したい、と言われた。とりあえず出社して、午後に病院に向かうことにした。
とはいえ、ショックだったようで、気づくと鏡の前でメイクもせずボーッとしている。こんな日が来るかもしれないと思っていたのに、心の準備はうまくいかないものだ。

病院へ向かう前に、保険関係の書類申請のために、緩和ケアに移る前に入院していた病院へ立ち寄った。電車の中では仕事をしていたが、バスに乗った瞬間、ふと空白に襲われ、気づいたら目的地に着いていた。

文書係の女性は、一見丁寧なようでいて、言葉にいちいち棘がある人だった。担当医も看護士も相談員もサポートスタッフも皆、温かい人ばかりだったのに、こんな対応の人もいるのか、と、驚いた。それでも、棘にいちいち反応するよりも、最小限の傷でやり過ごすことを選んだ。
やり過ごしながら思い出していた相談員のTさんに、父の現状を報告をしようと思い、相談室を訪ねた。対応中とのことだったが、父の名前を告げると、Tさんが中座して顔を見せてくれた。

Tさんは、
「あぁー!」と、50日ぶりにあった患者の娘に笑顔を向けてくれた。
その瞬間、私は涙で震えながら、
「父、頑張ってくれていて。今日、急に容体が悪くなっちゃったんですけど・・・2か月近く頑張ってくれています。今朝連絡受けてから、泣いたりしてなかったんですけど、Tさんの顔を見たら、なんか・・・」
と抑えていた思いがあふれ出た。Tさんも目を潤ませながら、
「お父さん、気丈な方だから。頑張ってくれたんだねぇ、何かあったら電話して。話すだけでも違うから。」
と言ってくれた。
Tさんと担当医のS先生は、父と家族のために、残された時間をどう過ごすのがいいのか、ということを考えてくれた人たちだ。ちょっと偏屈な父も好意を抱いていた。涙をぬぐいながら、担当医のS先生にもよろしく伝えてください、と病院を後にした。

コロナが陰性とわかり、ホッとして病院に向かいながら、TさんとS先生のことを父に伝えたいと思っていた。けれど、たった2日間で父は別人のようになっていた。
眠っていて、声をかけたら目を覚ましたようだったが、薄く開いた瞼の奥に、こちらが見えているのか不安になる。
「私だよ、わかる?」と、手を握って近づくと、言葉にならない声でうなずいた。いくつか話しかけるとちゃんと理解はしているようだったが、身体の辛さと薬のせいですぐにまた眠ってしまった。
たった3日前には、一緒にチーズケーキを食べてコーヒーを飲んだばかりだった。美味しいねと言っていたのに。

病室には2時間半ほどいた。時々目を覚ますが、すぐに眠りに落ちていく父。何か言葉を発しても、言葉がはっきりとしないうえ、途中で眠ってしまうので、理解するのが難しい。それでも、「ババ(私の母のこと)」と、がん患者の会で仲良くなった友人「Oさん」と「インターコンチネンタル」と口にしていた。
せん妄のようでもあったが、「インターコンチネンタルホテル?行きたいねぇ」と返事をすると、「うん」とうなずいた。
「また海外に行きたいねぇ。どこのインターコンに行ったんだっけ?アメリカ?」
と聞くと、うなずく。
「ロス?」「ニューヨーク?」と聞くと首を横に振った。父はどこのインターコンチネンタルホテルに行ったんだろう、と思いながらも、しばらく旅行の話をした。

不思議な会話を終え、再びコーヒーを一緒に飲もうと約束し、病院を出ると、強めの風が吹いていた。大きく息を吐いた瞬間、再び涙が溢れた。

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