その日、その時
父の容態に変化があった翌日、面会時間の15時に病院に行くつもりだったが、12時半頃に電話がなった。「早めに来られないか」とのことだった。昼食を食べてから出かける支度をしようと思っていたところだったが、とりあえず、向かった。他の家族にも連絡した方がいいのか尋ねたが、とりあえず、私に来て欲しいという。そんなに急を要する状況ではないのかと、少しだけ安心した。
病院に着くと、父の様子は前日とあまり変わらないように見えたが、声かけに対する反応がほとんどない。わずかに唸るかのように返事をしたようにも思えるし、手を取ると、軽く握り返しているように思えるのだが、明確な意思確認はできない。
そして、すぐに、他の家族も呼んだ方がいいと言われた。ちょうど、その前の週末にコロナに罹患していた妹や、普段は面会できない甥っ子も呼んでいいと言われる。思考能力が停止しそうなくらいになりながらも、妹と兄と母のケアマネさんに連絡を入れ、家族が揃った。
認知症の母は、瘦せ細り、眼を開けずに息苦しさから口を開いて息をしている父の姿に、「違う人みたい」と言い、状況を認識できないでいる。
医師に呼ばれて話を聞くと、
「この週末くらいまでだと思います。もって来週です。」
と言う。
夕刻、病室から見える大山連峰が美しく夕陽で焼けていた。
そういえば、前の週にも、母と散歩している時に、「夕陽が綺麗だから見て」と父から母に連絡が入っていたっけ・・・と思い出した。つい1週間ほど前なのに。
家族の誰かが付き添うということになり、私が病室のソファーベッドで夜を明かし、朝10時頃に妹と交代することにした。
私は、他の家族が帰宅する前に、近くのスーパーでお弁当やコーヒー、歯磨きセットと化粧品のセットなどを買い込み、宿泊の準備をした。友人宅に泊まるかのような気分だ。
夜勤の看護師さんに、敷きパッドと肌掛け布団を借り、持ち込んだPCやWiFiをセットして、
「お父さん、隣で寝るのなんて久しぶりだねぇ」
と声をかけた。看護士さんも、父に「よかったねぇ」と声をかけてくれた。
父と2人になり、父の規則的な呼吸が続くなか、私は横になる準備を始め、友人にLINEを書きながら歯磨きをしている時だった。
不意に、呼気の音がした後、吸気の音が止んだ。
一瞬、その音が再び開始されるのを、歯磨きの手を止めて待ったが、数秒経ってもそれが始まらない。慌てて父の顔を覗き込むと、静止動画のように止まっている。
ナースコールに駆け付けた看護士さんから、呼吸をしていないことと、まだ心臓は動いていることを告げられた。
再び、妹と兄に連絡をしたが、恐らく、駆け付ける前に心臓は止まるだろうと言う。
私は、まだ温かい父の手を握って、度々父を呼びながら、泣きながら、最後の短い時間を過ごした。
どのくらい経っただろうか。再び看護士さんがやってきて、その時には、心臓がもう動いていないと知らされた。死亡宣告は、家族が揃ってから当直医を呼んで行われるという。
「妹さんが来るまで、お父さんを独り占めできますよ。ハグしてもらいますか?」
と提案してくれた。そんなことをしていいのかと意外に思いながらもお願いすると、掛布団などをめくり、父の胸で泣かせてくれた。看護士さんは、まだ温かい父の手で、私の肩をさすったり、頭を撫でたりしてくれて、私は小さな子どもに返ったかのように泣いた。
温泉旅行に行った時のように、父のそばで夜を明かそうと思っていたのに。ゆっくりと一緒に過ごそうと思っていたのに。思いのほか早くやってきた別れ戸惑いながらも、しばらくの間、私は泣き続けた。
「お父さん、お父さんの娘で良かったよ」
「お父さん、頑張ってくれてありがとう」
「お父さん、育ててくれてありがとう」
父が生きているときにはなかなか伝えられなかった言葉を伝えながら。